チュニジアの街

チュニジア

チュニジア

「チュニジア」という国名は、フェニキアの女神、チュニスに由来します。アフリカ大陸の北端に位置し、リビアの北西部とアルジェリアの北東部にはさまれた形になります。チュニジアに北部や北東部は地中海に面します。
チュニジアは、アルジェリア、モロッコ(リビアを含む場合もあります)とあわせて、マグレブ諸国と呼ばれます。マグレブとは「日の沈む西の果て」という意味です。

チュニジアの面積は、日本の約5分の2です。国土の南部には、サハラ砂漠が広がっています。かつてここには、都市国家カルタゴがあり、フェニキア人の貿易の基地として栄えました。現在も、海岸の都市は港町として発展しています。
独立後の工業化によって、繊維、食品、鉄鋼、石油化学などの工業が発達しました。チュニジアは、世界的なリン鉱石の産出地であり、重要な輸出品となっています。石油も産出しますが、その量は大きくありません。農業は
あまり盛んではありませんが、小麦、オリーブなどが主に栽培されています。

近年は、観光業に力を入れていますので、チュニジアを旅行する方は是非、楽しく、快適な旅を満喫してください。

比較的豊富な観光資源に恵まれているとはいえ、有機的な開発が進んでいるとはいいがたく、失業問題や社会不安は絶えません。政府はIMF(国際通貨基金)と世界銀行の指導にしたがって経済構造の改革を推進しています。現在は、ヨーロッパ人やペルシア湾岸産油国の一部の富裕層が、夏期の避暑地として利用することが多いです。

首都チュニス

旧市街が世界文化遺産にも登録されている、チュニスは、はチュニジア共和国の首都であると共に、チュニス州の州都でもあります。またこの国の商業・工業の中心地でもあります。

チュニス市街は、チュニス湖とその西方の塩湖の間の地峡部に位置します。チュニス湖は、地峡部を横断する運河で、地中海・チュニス湾に面する外港のラグレットと結ばれています。

市内中心部から北東へ8kmほど行くと、国内最大の国際空港であるチュニス・カルタゴ国際空港あります。チュニジア旅行を計画されているかたも、多くは、この空港からチュニジア入りされることでしょう。チュニス・カルタゴ国際空港は、国外から多くの観光客を招き入れているほか、国内の交通の重要な拠点にもなっています。また、市内中心部の鉄道駅からも、国内の各都市へ向かう列車が数多く出ています。市内には、バスの他、メトロと呼ばれる路面電車が運行されており、観光客だけでなく、市民の重要な足となっています。その他、郊外へ向けては、TGMと呼ばれる電車が走っています。カルタゴ遺跡や、シディ・ブ・サイドなどへ向かう際には、是非、利用してください。

カルタゴ遺跡

チュニジアには、ユネスコの世界遺産が8つあります。文化遺産が7つ、自然遺産は1つです。カルタゴ遺跡はそのひとつです。

カルタゴは、現在のチュニジア共和国の首都チュニスから列車で20分くらいにある、チュニス湖の東岸にあった古代都市です。現在は、ユネスコの世界遺産に登録された、歴史的な遺跡のある観光地となっています。いたるところにカルタゴ時代やローマ征服時代の遺跡が存在しています。

チュニジアが位置する北アフリカの地中海岸は、紀元前北アフリカの地中海沿岸は、紀元前12世紀末にはすでにフェニキア人の貿易要地として利用されていました。前814年ごろ建設された都市カルタゴが前7世紀から台頭しました。カルタゴは強大な艦隊をもって地中海の覇権を握り、一時はローマをしのぐ勢力をもつまでにいたったのです。

ローマとカルタゴの戦いは、通常、ポエニ戦争と呼ばれます。紀元前264年から紀元前146年までの間に3回にわたって戦いが起こりました。戦いの原因は経済摩擦だったといわれています。勢力にのったカルタゴの通商活動が、ギリシアやローマの反発を買い、周辺民族いったいをすべて敵にまわしてしまったのです。
結局、前146年にカルタゴは陥落しました。市街は徹底的に破壊されました。

カルタゴはローマ帝国の属州となり、この間に大水道橋や、コロセウム、つまり円形劇場などが建設されました。しかし起源439年に、ゲルマン族の一派である、バンダル族の襲撃を受けました。

チュニジアを中心とするマグレブ地域では分裂と統一がくりかえされ、スペインとトルコの戦いの舞台ともなりました。

カルタゴには至るところに遺跡がありますが、カルタゴが経てきた悲劇の歴史を物語っているかのように、完全なものはほとんどありません。チュニジアを旅行する際には、この国の歴史を少しでも勉強していくと旅が味わい深いものとなります。

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